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因果の法則、キリスト教の矛盾点

思想哲学・思索
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僕は仏教徒なので「因果」を特に重要視しているのですが、森羅万象はこの因果の法則を離れて存在するものはありません。

何かがあるならば、必ずそれをもたらした原因があり、何かをしたならば、必ずそれ相応の結果がやってきます。

科学を考える場合でも、この「因果の法則」は基軸にあると言っていいでしょう。例えば火が存在すれば、必ず燃える材料と着火する要因という原因が必ず存在する、否、存在しないとおかしい。

この因果で人生という難題を考えていくと、単刀直入に言えば、生命に始まりや終わりがあるとすると矛盾してしまいます。

生命体に始まりの一点があったとして、その状態を生み出した原因がどこかにあるはずです。その原因は当然、始まりの一点より前に存在するはずなので、始まりであることに矛盾します。

同様にして終わりの一点が存在すると仮定しても、終わりの一点で作られた原因に対して、終わりである故にその結果を発揮できない。

このように考えていくと、無始無終の永遠の生命はオカルトでも何でもなく、因果の法則による論理性から導き出されるものなのです。

生命の誕生を「偶然だ」という者は多いが、因果を考えていない以上、むしろ非論理的と言わざるを得ません。(ちなみにこのときの「偶然か必然か」の問いは、自我意識を含む主観的生命と、光の情報や音の情報として入ってくる客観的生命に分けられます。最も肝要なのは主観的生命の因果律だと考えられます)

キリスト教では始まりの一点があると説きます(宗派によりある程度異なるかもしれませんが)。先ほど申し上げたように、始まりの一点がある考え方は矛盾します。宇宙は神が創造した、じゃあその神は誰が創ったのか、というように。いつかこの辺りはキリスト教徒の方に聞いてみたいのですが…。

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