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人生においてどうやって正しい判断をしていくか

この記事は約5分で読めます。

より良い人生を歩むために

人生の舵取りをどうやっていくかというテーマです。

どうすれば、瞬間瞬間を正しい判断で乗り越えていくことができるでしょうか。

人間は直感的に常に正しい判断を高い確率で選ぶことができる、のだとしたら、世の中の大部分の人はきっとかなり幸せでしょうね。

しかし実態は、多くの人が不幸です。

呻吟しながら苦悩に喘ぎ必死に生きています。

さて、どうすれば無上の人生を生きられるのか。

「私は誰も信じない」という人がいます。色んな人に騙されてきて、搾取されてきて、もう信じない、誰が信じるものか、と思うのは自然なことでしょう。

人間不信というのは多くの人たちが陥るところです。

論理によって判断を決める

さて、人生における判断基準を、誰を信じるかということではなく、誰が言うかは問わず、内容の正しさだけで判断しよう、と試みたとします。

例えば「1+1=2である」と言った人と「1+1=3である」と言った人がいるとします。

細かい数学の公理のお話は置いておくとして、誰もが明らかに前者の意見が正しいと確信するでしょう。

こういう場合は、論理で判断をすることができます。たとえ前者が日頃から嘘ばかりついている人であり、後者は日頃から誠実で嘘などつかない人であったとしても、論理的に考えて前者の方が正しいことは明確です。

発言者の人間性によって発言内容の是非を判断する、という必要性はありません。

論理が通用しない場合

(少し長くなるのでこの目次の最後の一文まで読み飛ばしてもらって構いません)

しかし、例えば「死後の世界は存在し、生きている間にいいことを多く成せば天国に、悪事を多く働けば地獄に行く」という意見と、「死後の世界など存在しない。死ねば皆、無に帰する」という意見で別れたとします。

一般的に考えて、こういう問いは後者の方が正しいとされている可能性が高いです。

なぜなら物質的に考えて、意識の拠り所である脳という物質が、死亡とともに機能しなくなるので、意識は消滅し、死後の世界などないのだ、という主張に説得力があるからです。

しかしそれは物質世界を五感で捉えたときの判断によるものです。

人間の意識というものは目に見えないし、科学的に解明することは不可能です。脳という物質のどこを解剖して探してみても「意識」というものは存在しません。しかし、自身の自覚として間違いなく「意識」は存在しています。

観測できる物質世界には存在していないのに、個々人の主観的な感覚として存在しているものがあるということです。

そして、そもそも物質世界を観測する時にも意識で感じ取っているわけです

この「意識」とはなんでしょうか。

クオリアで検索してみると面白いのでよけれは調べてみてください。

主観的意識は脳という物質に依存している。意識は「脳(という物質)の産物」であるから、意識とは物質に付随する幻に過ぎない、とも言えます。

反対に、物質を観測する時は必ず意識で捉えるわけであるから、物質とは「意識の産物」であり、故に物質とは意識に付随する幻に過ぎない、とも言えます。

人間は目に見えるものを素直にありのままに信じがちです。目に見えないものを軽視しがちです。

しかし、死んだことがある人が死後の世界を証明しに戻ってきたことがあるわけではないので、上記の理由も合わせて、死後の世界があるともないともどちらとも言えません。どちらとも証明できない、というわけです。

例えが長くなってしまいましたが、とにかく論理や科学的手法によって解決できない問題もあるわけです。

自分の頭で考えてもわからないことだらけ

そして、肝心なことは、人生における諸課題はほとんど自分の頭で考えてもわからないことばかりだということです。

学問を追求しようにも、いきなり最初から全てを分かっている人なんていないので、まずは先生に教えを乞うわけです。

その時、最初は理解できないので、まずは先生の言うことを「信じる」ことになります。

まず教科書を信じて、後から論理的に考えていって根拠を与えていくというような学習はごく一般的なものです。

「教科書は信じるものじゃない、理解するものだ」と言った人がいましたが、信じることも理解することも両方やります。証明を理解してないけど定理だけを使う場合は「信じている」と言えます。

よくわからないけれどもとりあえず先生の言う通りにやってみる。それでうまくできた。だからその手法を使って世の中を生きていく。

この時、なぜそうなるかの論理を知る必要性はあると言えばあるし、ないと言えばないです。

蛍光灯の仕組みを知らなくても、電気を点ければ明るい!便利!以上!でなんの問題もないからです。

というわけで先述した、「人生における判断基準を、誰を信じるかということではなく、誰が言うかは問わず、内容の正しさだけで判断しよう、という試み」はほとんど上手くいきません。

だってそもそも「内容の正しさ」を判断する基準そのものを持ち合わせていないからです。

内容の正しさを判断するためには「まず人を信じる」しかないのです。

人を選ぼうとして、その人が信じるに足ると言える、ある程度の根拠を揃えたら、あとはもうとりあえずは盲目的に信じるところから始めるしかありません。

だから誰も信じないなんて不可能なのです。

もっと言えば全てを理解して発言している人などいません。大抵は誰かから聞いたことを信じて、その上に自分の考察を展開しているにすぎません。

医者から処方される薬だっていちいち疑ってたら飲めないので、医者という専門家を信じて、思い切って飲んでるわけです。

人生に必要なのは人選び

結論をいえば、正しい判断で人生を幸福に生きていくためには「人選び」が必要です。

どう選ぶかといえば、その人が楽しそうで、人間性も豊かで、人格者で、好感が持てる、尊敬できる、一緒にいて居心地がいい、明らかに幸せそうだ、とかそんな感じです。

そういう風になりたければ、同じようなことをすればいいというわけですね。

でも自分だけが楽しみたくて、人には嘘を教えているかもしれません。

なので「本当に他者の幸福を願って本気で行動している」人がいれば積極的に信じるべきでしょう。

そんな風に考えていって、しかしいつまでも迷っていては人生が終わってしまうので、どこかで思いきりが必要になります。

「よし、この人を信じるぞ」という賭けですね。

人生はギャンブルです。うまくいくかいかないか、運次第です。

これで人生が決まってしまうのだから怖いものです。

僕は信ずるに値する立派な人間を目指しています。なので信じてもらえれば頑張ります、期待に応えます。みんなに幸せになってもらいたいのが僕の願いです。

もし少しでも信じてもらえるのなら、また引き続きブログを読んでもらえれば幸いです。

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