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価値は意識なしに存在し得ない 〜僕とあなたの見るソレは同じ?〜

思想哲学・思索
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価値とはごく当たり前の簡単な言葉

連載〈「人生地理学」からの出発――自己を知り、豊かな世界像を築くために〉東京学芸大学 名誉教授 斎藤毅  
【文化・解説】

こちらの記事を読みまして、考えさせられましたので書きます。(別に宗教的なことは言いません)

会員限定なんで読めないと思いますが、読める人は一読してみてください、とはいえ難解かもしれません。僕も多分半分も理解してません。

まぁ引用するんで、読まなくて大丈夫です。


さて、僕も価値創造を標榜する会の一員として、価値とは何なのかということをよく考えたことがあります。

価値——どれだけ価値があるかないか、分かりやすい話です。私にとって価値がある、彼にとって価値がある、別に難しいワードではないはずです。

しかし、今まで僕はこの価値という概念について、創価学会の初代牧口会長の言わんとする価値の概念についてあまりよく理解できていなかった。ピンと来てなかった。

いや、今だってわかったつもりではないんですが、少し気付いたことがあります。

牧口先生の人生地理学などをもっと学んでから語ろうかとも思いましたが、それではいつまで経っても何も書けないので、現時点での気付きをまとめます。というかブログなんだからこれからもそうします、はい。

認識の違いと、実在の違い

牧口常三郎師は、人間と自然の広範かつ多種多様な関係を、「肉体的交渉」と「精神的交渉」に分かりやすく分類しました。
聖教新聞:文化・解説

「肉体的交渉」と言うとアレですけども、自然と人間との肉体的相互作用、まぁ言わば科学的な話ですね。

一方で、それに対して「精神的交渉」と言われています。

特に「精神的交渉」に力点が置かれますが、ここでいう自然とは自然地理的な大地ばかりでなく、いわば風景としての自然です。

風景としての自然、だそうです。うまく表現したなぁと思いました、風景。

あるがままの自然との肉体的・科学的関わり合いではなく、精神的な関わり合いです。(でもこの引用元の記事では精神的交渉の中に科学的という分類を置いているので、僕の科学的という表現は語弊があるかもしれません。肉体的交渉とはあくまでも肉体的・生物学的、ということで)

要するに、僕は価値と言ってもいいと思います。

僕はここで、「あぁなるほど、牧口先生がよく価値と言われるが、ここにも結びつくんだなぁ」と感心しました。

「実在の違いを科学的」とするなら、「認識の違いを精神的」とも言えるかもしれません。

人間と自然の交渉は、ある程度までは同じでも「各方面の交渉の程度は、その地方の性質と、これに対する人民の性質とによりて異なるものなり」

違うモノが見えているのに同じモノなのか?

ここで例えを出すのに迷ったんですが、例えばAさんという人がいたとしましょう。Aさんは私の方を向いています。

一方、Aさんの向こう側にはBさんがいます。

僕→ ←Aさん ←Bさん

位置関係と向きとしては、こんな感じです。

この時、僕からはAさんの体の前が見えていて、BさんからはAさんの体の後ろが見えていますね?

つまり、僕とBさんは全く違うものを見ています

だって僕はを見ている。しかしBさんは後頭部背中を見ている。

でも、僕とBさんが見てるのは、同じAさんですよね??

違うものを見ているのに、同じものを見ているというのはどういうことでしょうか?

認識が違っても、実在としては同じ、ということが頻繁にあるということです。

自然との関わり合いの話なのに人間を例えに出すのはおかしいかと思いましたが、裏表があって直立している物体が人間しか思い浮かばなかったのです、すみません(´◉ω◉`)

科学的感覚を当たり前と考えてしまう我々

でも、考えてほしいんですけど、僕ここまで話しましたが、こんな発想は言われなきゃ考えないし、普通は僕が見てるAさんも、Bさんが見てるAさんも、同じだと疑いなく思いますよね?

いちいちここまで話してきたような疑いは持ちません。

そういう、科学脳とでも言えばいいでしょうか(これを僕はいつも打ち破ろうと躍起になってるわけですが)、認識の差異は関係なく、あるがままの実在が同じであればそれは同じものだと、普通思います。

それで合ってます。

リンゴがあって、それを見ていようが、見ていまいが、リンゴは消えません。そこにあるままです。(と言ってもそれは証明できませんがね)

でも、だから僕は、個人個人の視点、個人が感じる価値観、それが見落とされてしまうんだと思うんです。

科学は発達しても、主観的意識としての人間、人生、想い、気持ち、そういった領域に対する人類の知見はずっと遅れたままなのではないでしょうか。

もちろん世の中を理解し、生きていくためには、科学は非常に大事なので、科学的に考え勉強する必要があるのですが、それで大事なモノを見落としてはいけないなと思うわけです。

価値は意識なしに存在し得ない

価値とはどこにあるのか、誰が見ていなくてもどこかにポツンとあるのか。

おのずから存在するのか。

いいえ違います。

誰かが何かを認識している時にしか価値は出現しません。

この、価値について考えるということが、引いては、個人を尊重することに繋がるのではないかと思います。

同じものを見ても、私には私の認識による価値があって、あなたにはあなたの認識による価値があります。

全く同じ風景でも、例えば農民と詩人や画家では見方や感じ方が同じはずはないとし、「ひとり自然界の事物においてのみならず、人事界の現象においても、またそれに対する人々によりて、その交渉の方面を異にするを観る」

確かに科学的に見れば、リンゴを上から見ても、下から見ても、それは同じリンゴです。あくまでも見る側面が違うだけです。

ましてや同じ風景なら、同じとしか言いようがありません。

しかし、違うのです。

ここに個人の、個性の尊重を見出すことができるはずです。一番大事な輝かしいことは、物体としての人間ではなく、意識体としての人間の中にある。

科学的になり、冷笑主義になってはいけないと、それをいつも僕は言いたいんです。

また、所詮は実在と言っても、言葉で区切って決めたことに過ぎません。宇宙には元から区切られた実在など存在しないんです。

すべては混沌であり、定義によって実在は様々に形を変えます。

価値だけではない、実在だってコロコロと変わってしまうものなんです。(しかしそれでもなお客観的事実として宇宙に佇む究極的実在は存在すると僕は信じています)

その差異を認識し、乗り越えるためには、これはもう対話しかないと思います。だから対話が大事だと言われるんだと思います。

私どもも、どうせ価値が可変的であるならば、最高の価値観で生きていきたいものですね。

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